「前提」はどのように人生を作るのか?

例えば「無能な私には価値がない」みたいな前提が根底にあったとしたら、
 
「無能な私」を否定するために
「人間は有能でなければならない」
「私は有能でなければいけない」みたいな前提が作られます。
 
 
この時点で「無能に思える人間」を見ると嫌悪感を感じます。それが「無能なくせに楽しそうにしている人間」であれば怒りすら感じます。
 
なぜなら、自分が「無能な自分」を否定するために「有能であろう」と必死こいてるからです。
 
 
 
でも「無能な私」を否定したくて「有能であろう」とすればするほど苦しくなります。なぜなら「有能であろう」とするその行動自体が「無能な私」が前提になっており、前提を認める行為だからです。
 
なので、今度は「無能な私でも愛されたい」という願望を持つようになります。
 
でも、実際に「無能な私」を愛してくれる人が現れても、自分に価値を感じることはできません。大前提が「無能=価値がない」だからです。
 
で、下手をすると「無能な私を愛しているこの人にも価値がない」になったりします。
 
 
この時点で
「私は有能でなければならない」
「無能な私でも愛されたい」
 
という、2つの矛盾した欲求が生まれ、それが葛藤を生みます。そして、どちらを選んでも満たされることはありません。
 
 
「私は有能でなければならない」を選び、必死で努力して周囲から認められるようになっても、根底に「無能な私には価値がない」がある限り、自分を認めることはできません。
 
当然、他の人間を認めることもできません。
自分が劣っているということは、自分の存在価値を脅かされることに繋がるからです。
 
かくして「人間は苦痛に耐え忍び、我慢に我慢を重ねて努力をしなければ価値がない」という傍(はた)迷惑な価値観を振りかざすようになります。
 
 
 
「無能な私でも愛されたい」を選べば依存体質になり、スピリチュアルにハマったりします。
 
この場合、「自分の力で何かをやる」ということに嫌悪感や苦しみを感じたりします。なぜなら、「無能な私」が愛されなければ、自分の存在価値が否定されるからです。
 
 
ちなみに、実際はこれらの思い込みの上にさらに、
「有能であるためには◯◯でなければならない」
「愛されるためには◯◯しなければいけない」
 
というような思い込みがミルフィーユのように何重にも積み重ねられて、自我と人生が構築されます。
  
 
「ネガティブな前提」から脱却した分だけ、人は幸せになる余地が生まれるってこと。